2009年04月
亀岡にあったドッグラン 竹の海岸にて駿と優
「駿」が慢性膵炎と診断されたのは2歳を過ぎた頃だった。急に便の回数が多くなり、40キロあった体重は1ヶ月で36キロにやせてしまった。
すい臓からでる消化酵素が不足しているため消化不良を起こし食べても太れない病気である。治療として食事にパンクレアチンを混ぜて与えたが、効果はあまりなく、気休めの感があった。何とか治してやりたいと、いろいろな情報を得ながら試行錯誤で手づくり食を作ったりした。絶食をしてみるのも一つの方法であったが、ガツガツ食べる「駿」には、まる一日の絶食はさぞきついだろう、他にも犬はいるので実行にはいたらなかった。
長生きは無理かもしれないと憔悴している私をみて、訓練士は忙しい合間をぬって藤井寺にある動物病院まで案内してくれた。
病名はわかっていながら、好転に向かうすべはないものかと、夜遅い時間だったが「駿」を乗せて病院に向かった。
検便と1ヶ月に1度の血液検査、脂肪分の少ない療養食を食べさせること、聞くだけでため息が出た。私の気持ちが移ったかのように「駿」の目はうつろで元気はなかった。
そんな心境のときに出会った本が「神秘の治癒力」である。
タイトルをみただけでも今の私には必要と感じた。
「自然に治らない病気はない」と書かれている。本当にそうだろうか・・、しかし奇跡で治るかもしれない。希望と勇気をもらった気になった。また「病気になれば自然と調和したライフスタイルに変えなければいけない」(食生活、吸っている空気、住環境、仕事、家族関係、友人関係、地域社会、生きる目的)など
犬の医学書にこんなことは載っていない。
Gシェパードは多頭で飼うと持っている本来のよさを発揮できないのかもしれない。
私は環境を変えて自然の中で「駿」を自由に走らせてみようとおもったのである。
自宅からドッグランまで片道30キロある。他の犬たちを家に残し「駿」だけをつれて、ドッグランで1週間合宿することにした。
かつて平成11年から17年まで使っていたドッグランの周辺に民家はなかった。
三方山に囲まれ道路に沿ってきれいな川が流れている。夏の暑い盛りに犬たちはその川でよく遊んだ。ホタルの乱舞も見られるところである。1400坪の敷地一帯が緑に覆われている景色は訪れる人たちの気持ちを癒してくれた。
ところが夜にはハウスの灯りだけが真っ暗やみのなかにぽつんと燈っているだけで、一人ではとても泊まることができない場所にかわる。私は寝袋で「駿」はその足元で寝た。何かあやしい物音がすれば凄みのある声で警備をしてくれる。ボディガードの「駿」が一緒だったので泊ることが出来た。恐怖心も起きず眠ることができた。
7月の朝は早い。私が起きると一緒に起きてドッグランをひた走る。朝の太陽は朝露をキラキラ輝かせ清々しい朝を体験した。
1週間を過ごし自宅に戻ったときの第一声は「駿、太ったじゃないか!目がイキイキしている」と、私も同感であった。
近所の方からも「駿ちゃん太った?」と声をかけられうれしくなった。
吸った空気や環境、そして私の心もちょっと変わっただけで生き返ったようである。しかし、慢性膵炎が治ったわけではない。
合宿の間、私の気持ちが「駿」に注がれていたことは駿も感じていたはずだ。
9年の生涯はいつも慢性膵炎と向き合い、試行錯誤の連続だった。
一喜一憂することも多かったが大変だと思ったことはない。
やっぱり「駿」は愛される存在だったのである。
犬は自分がどんな境遇にあっても、飼い主のことは大好きなのである。
逝く2週間前に竹の海岸に泊りがけで旅したことは生涯の想い出のひとつとなった。
病歴を振り返ると
6ヶ月には幼児性の湿疹。
10ヶ月のとき剥離骨折。
1歳頃に毛包虫症。
1歳半には後ろ足が地に着かないので、足膝蓋骨の脱臼か靭帯が切れている可能性があるかもしれないと試験的手術をした。結果はどれも当てはまらずそんなことをしてしまったことが悔やまれる。
2歳には慢性膵炎。 以後亡くなるまで続く。
4歳のとき腸閉塞。
9歳 自己免疫性溶血性貧血
食べたものが消化吸収されないため次々と内臓の障害がでてきた。
難病といわれるものばかりであった。
「駿」が慢性膵炎と診断されたのは2歳を過ぎた頃だった。急に便の回数が多くなり、40キロあった体重は1ヶ月で36キロにやせてしまった。
すい臓からでる消化酵素が不足しているため消化不良を起こし食べても太れない病気である。治療として食事にパンクレアチンを混ぜて与えたが、効果はあまりなく、気休めの感があった。何とか治してやりたいと、いろいろな情報を得ながら試行錯誤で手づくり食を作ったりした。絶食をしてみるのも一つの方法であったが、ガツガツ食べる「駿」には、まる一日の絶食はさぞきついだろう、他にも犬はいるので実行にはいたらなかった。
長生きは無理かもしれないと憔悴している私をみて、訓練士は忙しい合間をぬって藤井寺にある動物病院まで案内してくれた。
病名はわかっていながら、好転に向かうすべはないものかと、夜遅い時間だったが「駿」を乗せて病院に向かった。
検便と1ヶ月に1度の血液検査、脂肪分の少ない療養食を食べさせること、聞くだけでため息が出た。私の気持ちが移ったかのように「駿」の目はうつろで元気はなかった。
そんな心境のときに出会った本が「神秘の治癒力」である。
タイトルをみただけでも今の私には必要と感じた。
「自然に治らない病気はない」と書かれている。本当にそうだろうか・・、しかし奇跡で治るかもしれない。希望と勇気をもらった気になった。また「病気になれば自然と調和したライフスタイルに変えなければいけない」(食生活、吸っている空気、住環境、仕事、家族関係、友人関係、地域社会、生きる目的)など
犬の医学書にこんなことは載っていない。
Gシェパードは多頭で飼うと持っている本来のよさを発揮できないのかもしれない。
私は環境を変えて自然の中で「駿」を自由に走らせてみようとおもったのである。
自宅からドッグランまで片道30キロある。他の犬たちを家に残し「駿」だけをつれて、ドッグランで1週間合宿することにした。
かつて平成11年から17年まで使っていたドッグランの周辺に民家はなかった。
三方山に囲まれ道路に沿ってきれいな川が流れている。夏の暑い盛りに犬たちはその川でよく遊んだ。ホタルの乱舞も見られるところである。1400坪の敷地一帯が緑に覆われている景色は訪れる人たちの気持ちを癒してくれた。
ところが夜にはハウスの灯りだけが真っ暗やみのなかにぽつんと燈っているだけで、一人ではとても泊まることができない場所にかわる。私は寝袋で「駿」はその足元で寝た。何かあやしい物音がすれば凄みのある声で警備をしてくれる。ボディガードの「駿」が一緒だったので泊ることが出来た。恐怖心も起きず眠ることができた。
7月の朝は早い。私が起きると一緒に起きてドッグランをひた走る。朝の太陽は朝露をキラキラ輝かせ清々しい朝を体験した。
1週間を過ごし自宅に戻ったときの第一声は「駿、太ったじゃないか!目がイキイキしている」と、私も同感であった。
近所の方からも「駿ちゃん太った?」と声をかけられうれしくなった。
吸った空気や環境、そして私の心もちょっと変わっただけで生き返ったようである。しかし、慢性膵炎が治ったわけではない。
合宿の間、私の気持ちが「駿」に注がれていたことは駿も感じていたはずだ。
9年の生涯はいつも慢性膵炎と向き合い、試行錯誤の連続だった。
一喜一憂することも多かったが大変だと思ったことはない。
やっぱり「駿」は愛される存在だったのである。
犬は自分がどんな境遇にあっても、飼い主のことは大好きなのである。
逝く2週間前に竹の海岸に泊りがけで旅したことは生涯の想い出のひとつとなった。
病歴を振り返ると
6ヶ月には幼児性の湿疹。
10ヶ月のとき剥離骨折。
1歳頃に毛包虫症。
1歳半には後ろ足が地に着かないので、足膝蓋骨の脱臼か靭帯が切れている可能性があるかもしれないと試験的手術をした。結果はどれも当てはまらずそんなことをしてしまったことが悔やまれる。
2歳には慢性膵炎。 以後亡くなるまで続く。
4歳のとき腸閉塞。
9歳 自己免疫性溶血性貧血
食べたものが消化吸収されないため次々と内臓の障害がでてきた。
難病といわれるものばかりであった。
優の訓練風景 待たされているところ 優と競技会に出場
警察犬協会やJKC(ジャパンケンネルクラブ)主催による犬の競技会というものがある。日ごろの訓練の成果を審査員に評価してもらう場所でもある。
あるとき「競技会に出てみてはどうか」と勧められた。
当初、競技会に出陳することを目的にシェパード犬を選んだわけではなく、同伴犬として頼りになる犬種であり精悍さと聡明さに惹かれてこの犬種を選んだのである。勿論トレーニングは絶対必要と思っていたので訓練に通った。その後は生活に支障がなければそれでよし、競技にでるなど考えもしなかった。
しかし「優」そして訓練士との出会いは、私に様々な経験を積ませてくれ、180度転換するくらい犬に対する認識も意識の持ち方も大きく変えさせられた。
私がはじめて競技会に出たのはJKC主催のCD2(家庭犬中等科)である。
7課目と自由選択3課目、あわせて10課目について審査される。
当日、会場の周囲には犬を連れて歩いている人たちが大勢いてエントリーするまで、それぞれ犬をウオーミングアップさせていた。指導手の発声の響きは自信に満ちていたし、それに呼応する犬たちの動きはおおいに訓練されたものだった。
私は、初めての出場でも「優」はいつも通りやってくれるだろうと思っていた。ウオーミングアップは訓練士がしてくれ、エントリーをしてからの犬の扱い方、審査員に申告するとき、終わった後の注意点などを教えてくれた。ところが順番を待っている頃からだんだん「優」に落ちつきが無くなってきた。励ましなだめてもいっこうに落ちつかない。その様子に私の方も焦りが出てきたのである。
いざ本番、リードをつけて脚側を開始しはじめたが、もうすでにいつもの「優」とは違う。リードの感触が重く感じられた。 コーナーを曲がるときにリードで調節すると、首輪についている金具の「カチャ」という音がする。そのたびごとに審査員は減点チェックをしているようである。もはや私は「優」に気づかう余裕すらなく、課目の順番を間違えてはいけないと、かろうじて停座の位置までたどりつかせた。
そしてリードをはずして脚即の段階まで進みコーナーにさしかかったとき、「優」はそのまま真直ぐロープを跳び越え一目散に応援していた主人のところに逃げていったのである。
失格!その間わずか2・3分、なんとお高い出場料になったことだろう。
日ごろの実力を発揮できなかった!こんなに難しいとは思わず随分落ち込んでしまった。やはりステージが違うといつも通りにはいかない。
終わったあと、訓練士から「逃げられましたね~」とからかわれてしまった。
日ごろ問題ない「優」でもステージが違うと思わぬ行動をとってしまう。練り鍛えるとは信頼で結ばれた犬と飼い主のコミュニケーションである。
コミュニケーションがとれていると思っていたのは一人よがりで、本当に犬を理解しているとはいえなかった私である。
警察犬協会やJKC(ジャパンケンネルクラブ)主催による犬の競技会というものがある。日ごろの訓練の成果を審査員に評価してもらう場所でもある。
あるとき「競技会に出てみてはどうか」と勧められた。
当初、競技会に出陳することを目的にシェパード犬を選んだわけではなく、同伴犬として頼りになる犬種であり精悍さと聡明さに惹かれてこの犬種を選んだのである。勿論トレーニングは絶対必要と思っていたので訓練に通った。その後は生活に支障がなければそれでよし、競技にでるなど考えもしなかった。
しかし「優」そして訓練士との出会いは、私に様々な経験を積ませてくれ、180度転換するくらい犬に対する認識も意識の持ち方も大きく変えさせられた。
私がはじめて競技会に出たのはJKC主催のCD2(家庭犬中等科)である。
7課目と自由選択3課目、あわせて10課目について審査される。
当日、会場の周囲には犬を連れて歩いている人たちが大勢いてエントリーするまで、それぞれ犬をウオーミングアップさせていた。指導手の発声の響きは自信に満ちていたし、それに呼応する犬たちの動きはおおいに訓練されたものだった。
私は、初めての出場でも「優」はいつも通りやってくれるだろうと思っていた。ウオーミングアップは訓練士がしてくれ、エントリーをしてからの犬の扱い方、審査員に申告するとき、終わった後の注意点などを教えてくれた。ところが順番を待っている頃からだんだん「優」に落ちつきが無くなってきた。励ましなだめてもいっこうに落ちつかない。その様子に私の方も焦りが出てきたのである。
いざ本番、リードをつけて脚側を開始しはじめたが、もうすでにいつもの「優」とは違う。リードの感触が重く感じられた。 コーナーを曲がるときにリードで調節すると、首輪についている金具の「カチャ」という音がする。そのたびごとに審査員は減点チェックをしているようである。もはや私は「優」に気づかう余裕すらなく、課目の順番を間違えてはいけないと、かろうじて停座の位置までたどりつかせた。
そしてリードをはずして脚即の段階まで進みコーナーにさしかかったとき、「優」はそのまま真直ぐロープを跳び越え一目散に応援していた主人のところに逃げていったのである。
失格!その間わずか2・3分、なんとお高い出場料になったことだろう。
日ごろの実力を発揮できなかった!こんなに難しいとは思わず随分落ち込んでしまった。やはりステージが違うといつも通りにはいかない。
終わったあと、訓練士から「逃げられましたね~」とからかわれてしまった。
日ごろ問題ない「優」でもステージが違うと思わぬ行動をとってしまう。練り鍛えるとは信頼で結ばれた犬と飼い主のコミュニケーションである。
コミュニケーションがとれていると思っていたのは一人よがりで、本当に犬を理解しているとはいえなかった私である。
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